『引っ越し大名』松平直矩は史実でどんな人物だったか解説!映画との違いも
映画『引っ越し大名!』を観てきました!
今回の映画のタイトルの由来にもなった松平直矩(読み:まつだいらなおのり)について、実際の人物像などがとても気になりますよね。
今回は『引っ越し大名!』の映画と史実の違い含めて、松平直矩の人物像をまとめてみました。
目次
松平直矩の人物像は優れた人格者だった!
元禄時代に綱吉の重心が当時の大名一人ひとりについて調べたとされる、大名の人事評価ともされる「土芥寇讎記」では松平直矩の人物像についてこう記されています。
「松平直矩は将としての威厳があり、文武両道に関心があり、過去の戦史に学び、仁義を守り、忠節を尽くすよう心がけ、誉の将として評判であった」
欠点という欠点のないすごい人物だったようですね。
べた褒め過ぎないか?とも思いましたが、この書物の中で酷評されている他の大名も多くいます。どうやら松平直矩の人物像は本当に優れたものであったようです。
また、松平直矩が書いた大和守日記という日記が残されており、その日記でも日々政務に励む真面目な人物像が読み取れます。
趣味は観劇や音楽を好んでいたようです。
下の者たちの気晴らしのために観劇一団を呼び寄せるなどしていた記述もありました。
次は映画の松平直矩(及川光博)と史実との共通点や違いについて考察していこうと思います。
映画『引っ越し大名!』と史実の共通点
7回の国替え(引っ越し大名の異名)
映画のタイトルの由来でもありますが、松平直矩は父の代から7回もの国替えを命じられており、「引っ越し大名」なんて呼ばれていたのだそうです。
- 1644年 越前大野藩(5万石)→出羽山形藩(15万石)
- 1648年 出羽山形藩(15万石)→播磨姫路藩(15万石)
- 1649年 播磨姫路藩(15万石)→越後村上藩(15万石)
- 1667年 越後村上藩(15万石)→播磨姫路藩(15万石)
- 1682年 播磨姫路藩(15万石)→豊後日田藩(7万石)
- 1686年 豊後日田藩(7万石)→出羽山形藩(10万石)
- 1692年 出羽山形藩(10万石)→陸奥白河藩(15万石)
最終的には元の15万石に戻ったのも映画と一緒ですが、戻ったといっても度重なる引っ越しや人のやりくりで実際には財政はかなりひどいものだったそうです。
しかしこのような境遇で父を5歳で失っているにも関わらず真面目に政務に励む人物像だったことからも、松平直矩が人格者であったことが伺えますね。
男色家であった
松平直矩に男色家の気があったのは本当だったようです。
先程、人物像のところでも紹介した大名の人事評価書『土芥寇讎記』にはこう書かれています。
「美少年好きではあるがこのようなことは非とは言えない。“聖人ですら一失ある”ものでありましてや凡人(聖人などではない一般人)であるから。それに極端にその道を暴走しているわけでもないので(藩政上)大した問題になることではない」
史実の松平直矩も美少年が好きだったようですね。
男色家という設定はてっきり映画を面白くするために作られた設定かと思っていたのでこの点は少々ビックリです。
映画『引っ越し大名!』と史実の違い
父・松平直基の死去場所
映画「引っ越し大名!」では松平直矩の父・松平直基は物語冒頭に籠の中で亡くなる描写がありました。
亡くなったのは「引っ越しの最中」であったことは間違いないようなんですが、山形から姫路への道で江戸に立ち寄っていて、江戸の滞在中に亡くなったのが史実のようです。
映画では引っ越しの過酷さを表現するために籠の中で亡くなるという描写へ変更したのでしょうね。
15万石→7万石へ減らされた理由は男色ではなかった
映画では松平直矩(及川光博)が、柳沢吉保(向井理)の誘いを断ったことから恨みを買って石高を減らされたという設定でした。
これは流石に想像つきますが史実では違います(笑)
松平直矩は越後騒動というお家騒動の仲裁に入ったことがあったのですが、この騒動がかなり大きな騒ぎまで発展してしまい、将軍・綱吉が裁定を下すことで収束します。
この際、松平直矩は渦中の関係人物の従兄弟であることや、仲裁に不手際あったと咎められ15万石→7万石へ減らされた上で国替えを命じられることとなったのです。
やはり映画のようなギャグっぽい理由ではなかったようですが、史実の方の処分の理由も少々理不尽なように感じますよね。
引っ越し奉行という役職は実際にはなかった
映画では国替えにおける役職として、引っ越し奉行なるものを主人公の春之介(星野源)が命じられるところから始まります。
しかし史実ではこのような役職は存在していなかったようです。
所替御用掛(ところがえごようがかり)といういわば現代でいうところの「プロジェクト担当」のような係が存在していて、その役職にあたる人物が取り仕切っていたと考えられているそう。
引っ越しに限った役職ではなくて、もっと汎用的な役割だったということですね。
まとめ
今回の記事をまとめると、
- 松平直矩は史実の資料を多角的に検証しても優れた人格者であった
- 7回の国替えの経歴は史実通りだった
- 松平直矩が男色家であったのも史実通りだった(これにはビックリ!)
- 父・松平直基の亡くなった場所は籠の中ではなく江戸だった
- 石高を減らされた理由は、お家騒動仲裁の不手際の罰だった
- 引っ越し奉行という役職は実際にはなかった
でした!
こういった時代劇をきっかけに江戸時代の史実を知っていくのも楽しいものですね。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。